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落書き研究のすすめ

2011年12月08日
公共施設や他人の家宅等への落書きは、
器物損壊等の違法行為であり、ものを汚す迷惑行為である。

日本の学生が、観光で訪れたイタリアの文化遺産に、
自分の名前などを落書きして問題になったという騒動も、記憶に新しい。
それと併せて、
江戸時代の武士が、アンコールワットに名前を記した、という話を想い起こし、
日本人の落書き根性について、思いを馳せた人もいたかもしれない。
とはいえ、
落書きは世界的に共通の文化事象であり、世界各地に興味深い例が残っている。
ウィキペディアの「落書き」のページが、諸側面を手際よくまとめている。


そうした例をいちいち挙げるまでもなく、
観光地へ行けば、公園の展望台などの建物の手すりや柱に、
「たかし見参」だの、「たろう(ハートマーク)はなこ」だの、「○○年○月○日みちこ」だのといった落書きが、
無数に書かれているのを、しばしば目にする。 (上例はいずれも仮名)
無粋なものだと目をそらして、それまでだが、
少し注意深く見てみると、
意外に古い年月日であったり、あるいはつい最近の日付だったり、
また、ときには面白い標語めいたものや主義主張が、書かれていることもある。

それを書いた人々は、
なぜそのとき、マジックペンを持ち合わせ、
書くべきところでないところに書くという禁を犯し、
衆目にさらされるところに、それを書き残そうと思ったのか。
そう考えれば、
落書きというものも、少しく興味深いものとなる。


しかし、単に眺めて楽しんでいるだけでは、進歩はない。
もう少し踏み込んで、有益な見方で落書きを見てみたい。

結論からいえば、
落書きは過去に作成され、現代に残された歴史資料であると同時に、
現代においては、景観の一部を構成するモノである。
大げさないいようではあるが、
落書きは、
歴史学の対象ともなり、考現学の対象ともなり得るのである。


ここで、試みにいくつか実例を挙げながら、話を進めたい。


①自署
この写真は、吾人が先日訪れた、箱根明神ヶ岳の登山道にある小屋である。

myoujin

myoujin02

「明神ヶ岳見晴小屋」と名前はついているが、
もとは林業関係者が使っていた、作業小屋か物置きであろうか。
陰気な上に泥だらけで、あまり入ろうという気の起こらない小屋ではあるが、
その窓や壁には、ご覧のとおり、
泥を指でこすった無数の落書きが書かれている。
ほとんどが自分の名を記したもので、
みな自分がここに来たことを顕示している。
これは、観光地の施設の外壁等にもっとも多く見られるタイプのものであり、
大抵の場合、自分がそこを訪れた記念に記している。
「参上」とか「見参」とかイタイタしいことば遣いも、旅行中のハイテンションならではだろう。

来た記念に書くという落書きは、
類型としては、
先掲のアンコールワットの武士の例も同類であり、
吾人が実見した古い例では、
岐阜県の古寺で、柱や壁に墨で生国と姓名を記した、江戸時代のものと思われるものもあった。

寺社でよく見られる納札(千社札)も、同じ系統である。
納札は、14~15世紀の巡礼信仰の高まりとともに盛んになった文化で、
聖地や霊場を巡礼した証拠に、その柱や壁に貼り付けていく。
それ自体、巡礼信仰を実証的に研究するための、欠かせない資料となっている。
『国史大辞典』(吉川弘文館刊)の「納札」の項を見ると、
「なお、社寺にみられる、年月日・姓名などを記した落書きは、納札の変形したものである。」
とあるが、
特に、上の写真を見ると、
そのそれぞれの強烈かつ不遜かつ単純な自己顕示は、
単なる信仰の変形とも思われない。

今日、このタイプの落書きは、
多くの場合、姓名いずれかをともなわず、ときとしてあだ名のみであったりする。
でありながら、各々が強烈な自己顕示を放っている様は、
今日のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・システム)の流行を想起させる。
特定の仲間内のみで通じる名前(ハンドルネーム)で参加し、
不特定の誰かしらへ向けて、メッセージを発信できるSNSは、
衆目にさらされる場所に、曖昧な名前で自分の存在(そこへ訪れたこと)を主張する落書きと、
同じ衝動に根差しているように思われる。
ここに通底する部分があるとすれば、
最近、軽犯罪露悪なども出てきたSNS使用の乱れや、メディアリテラシーの問題の解決策は、
案外落書きの中にあるかもしれない、
という妄想も許されようか。


②訴え
これとはまったく別の落書きとして、
便所の落書きがある。
便所の落書きに、名前が記されることは、ほとんどない。
心中の吐露や、欝憤、欲望、他人の悪口などが、書き殴られている。
ときとして、返答がつき、応酬が繰り広げられる場合もある。
くだらないどうしようもないことから、格言や人生訓めいたものまで、さまざまである。

吾人は以前、山形県内の駅の便所の、個室の壁に、
「何をやってもいー 煙草だけはやめろ ブリンナー」
とあるのを見た。
ロシア人俳優ユル・ブリンナーの、禁煙CMの文句であるが、
その書いてある場所と文句の組み合わせの面白さに、思わず膝を打った。

一方では、大学の便所の壁などには、
歪曲した性欲の吐露や、それに対する嘲笑や罵言、意見が書かれており、
まさしく“便所の落書き”にふさわしい。

掲示板2ちゃんねるなどの一部が、“便所の落書き”と揶揄されるという点では、
やはりこれも、インターネット上の動向と関連付けられる。

なお、ドイツでは、こんな研究をした人もいたとか↓
http://scienceplus2ch.blog108.fc2.com/blog-entry-626.html


③イラスト
無地の平面を見れば、絵を描きたくなる、
というのは、原始からの人間の心理だろう。
これらは、①②の文字情報と異なり、絵画資料という価値をもつ。
描かれた時代の風俗文化を知る、貴重な歴史資料であり、
大きなものでは、街の景観を構成する、現代社会のモノでもある。

京都浄瑠璃寺の三重塔(国宝)の天井板に描かれていた男の絵は、
800年前のものかとされる貴重な落書きであり、
また、先掲と同じ岐阜県の古寺でも、
盃を持った坊主の古い落書きを、吾人は実見した。

総じて、線画のみの漫画チックなタッチであり、
作品としての絵画と異なり、気軽に描かれたことが推察される。
やはりこれも、インターネット掲示板のAA(アスキーアート)と共通する。


いうまでもないが、
公共の場所や他人の家宅への落書きは、違法行為・迷惑行為である。
しかし、
すでに存在するものとして、善悪の別から離れて見てみれば、
存外面白いものが見えてくるかもしれない。

それも、
著名な例や特徴的な例ばかりを、文化事象として見るのではなく、
埋もれがちな圧倒的多数の雑多な落書きを、
考現学的に(サブカルチャーとしてでなく、学究的に)とらえ直すことこそ、重要と考える。
そして、
落書きを落書きの範疇のみで捉えず、
他の文化事象と連関させて考えてみれば、より発展的なものとなるだろう。
たとえば、
実名制に発展せず、仮名制(固定ハンドルネーム)と匿名制に二極分化する、
現代日本のインターネット文化・社会の構造を読み解くカギも、
あるいは、仮名による自己顕示と、匿名による主張や誹謗中傷という、
落書きのもつ二面性の中に隠されているのかもしれない。

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都条例改正をめぐって 4

2011年04月19日
←前稿 3. 都知事以下の認識



4. 反対論者の論点の拡散

更新を怠っている間に、
都知事選が終わり、石原慎太郎氏の再選と決してしまった。
これまでとり上げてきた、東京都青少年健全育成条例改正については、
今夏の施行、およびその運用にともなう、マンガ・アニメ界の動揺を、
ただ見守るだけの状態になりかねない。
急を要する問題であるわりに、反対運動は、以前のような盛り上がりを見せず、
何やら諦めムードが漂っているようにも思われる。

本頁においては、ともかく、当所の予定どおり、
「都条例改正をめぐって」シリーズの完結を目指し、
本稿では、過去の反対運動の論点の分散状況を、大掴みに見ておきたい。



吾人の気付いた限り、改正反対論者の論点には、
以下のような諸点があった。

① 条文の曖昧さ
② 規制基準の曖昧さ
③ 規制の根拠の不明確さ
④ 過度な自粛の誘発
⑤ 表現の自由という原則
⑥ 無菌室状態の是非
⑦ 都知事以下の言動に対する不信


このうち、
① 条文の曖昧さ
② 規制基準の曖昧さ
③ 規制の根拠の不明確さ
については、先稿で述べた。
いずれについても、
条例の条文で、誰しもが納得するようにはっきりさせることは、
ほとんど不可能に近い。
いい換えれば、
反対の論点としては、現実味に欠くと言わざるを得ない。


また、
④ 過度な自粛の誘発
についても、
条例改正が業界を委縮させ、過度な自粛をもたらし、
文化そのものの縮小・衰退・崩壊を招く可能性を、先述した。
これは、比較的現実的な論点と思われるが、
実際に条例が運用される中で、条例の直接的な目的とする、すみわけ・陳列区分に対して、
業界がいかにうまく折り合っていくか、にかかっているであろう。
マンガ・アニメ界が、今日の日本社会、いや国際社会において、
決して小さな市場ではないこと、
出版業界にとっても、マンガ・アニメに依存している面が、少なからずあることに、
希望を見出すほかあるまい。


⑤ 表現の自由という原則
については、
条例改正そのものが、表現の自由を規制・侵害するものではない以上、
改正反対の論点としては、的外れといわざるを得ない。
結果的に、表現の自由が侵害されることになるとしても、
その責任は、条例でなく、
その運用段階における、行政・業界等に求められるべきである。


⑥ 無菌室状態の是非
というのは、
「青少年の健全な成長」にとって、
“有害”図書等“不衛生”なものを一切排除した、無菌室のような状態が、
果たして本当に適正であるのかどうか、という議論である。
端的にいえば、
条例改正反対の論点としては、迂遠といわざるを得ない。
教育論としては、重要な議論であろうが、
ここから始めていては、改正反対に行き着くまで、どれだけの時間がかかるだろうか。
これまた現実的な論点とはいい難いのである。


そして、
⑦ 都知事以下の言動に対する不信
については、前稿で述べたとおりである。
東京国際アニメフェア2011への不参加表明等、
出版業界における具体的な反対運動の根拠となったのは、
この、都知事以下の言動に対する反発であった。



以上のように、
条例改正反対運動といっても、
それぞれの主張や議論の立脚点は様々であり、
一つの反対運動として結集すべき争点が分散して、ばらばらの状態にある。
それを大別すれば、およそ以下の3派となろう。
条例改正反対派・・・・多少の規制は止むを得ないが、法令として規制することに反対
規制反対派・・・・・・・・自主規制を含むあらゆる表現規制に反対
都知事反対派・・・・・・都知事らの言動および改正案可決までの経緯に反対
これらの各派が、めいめい条例改正に反対を唱えていたのである。
議論の盛んな時期には、一部において、
内ゲバのごとく、各派間で叩き合いをしていたのも見受けられた。
結局、改正反対の機運を糾合することができず、
改正案の可決を見、今夏の施行を待つばかりとなったのである。
しかも、石原慎太郎氏の再選によって、
生半可な運用では済まされそうにないことは、想像に難くない。



なお、
反対運動について、もう一点問題点を指摘するならば、
運動のほとんどが、インターネットの世界にほぼ限定されていた、
という点がある。
ツイッターや各所ブログで、盛んに議論がなされたものの、
改正の経緯や反対運動の動きが、実際にマスメディアに取り上げられたのは、
ごくわずかであった。
しかも、その扱われ方は、
これまで当頁で述べてきたような、条例改正が孕む様々な影響・危険性を捨象した、
単純なポルノ規制、というような扱われ方であった。
折角の議論が、どれほどの益のあるものであったのか、疑問を持たざるを得ないのである。
当然ながら、当頁とて、その誹りを免れるものではないが、
自己を棚に上げて、ひとまず指摘しておきたい。

しかし、
一時盛り上がりを見せた、ツイッターや各所ブログ上での議論も、
最近はあまり見かけなくなった。
反対運動は、結局ただのムーブメントに終わったらしい。
条例をとりまく状況は何ら変化していない。
石原氏再選で、むしろ悪化したようにも思われる。
条例改正が、具体的に表現規制となって立ち現われてから、再び反対と叫んだところで、
それは後の祭りである。



→次稿 結語 へ

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大地震に関して

2011年04月16日
まもなく、M9.0の東北地方太平洋沖地震から1ト月と1週間が経過しようとしている。

このたびの震災では、
津波の恐ろしさから、原発の危険性、都市の脆弱性に至るまで、様々なことが明らかとなり、
現代の吾々に、学ばねばならぬことの多さを、思い知らす結果となった。
さらには、地震や原発問題に連動して、
デマの拡散、買いだめ・買い占め、過度な自粛ムード、果ては被曝者への差別等々、
現代社会ならではの問題も、数多く起きている。
余震も続いており、原発問題も進展なく、
災害は継続中である、というのが実情である。

かくのごとき尫弱な当頁にとって、
社会、特に被災地に益することを発信できることは何ひとつない。
益もないことばかりなのは、当頁の常である。
今はただ、同じ列島に住まう人間として、
亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、
被災地の復興と、その後のますますの繁栄を、ただ願うばかりである。

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都条例改正をめぐって 3

2011年02月03日
 ←前稿 2. 条文・規制基準・規制の根拠



3. 都知事以下の認識

条例改正反対・規制反対を唱える人々の多くには、
都知事 石原慎太郎氏や副都知事 猪瀬直樹氏らの、マンガ・アニメ文化の認識・発言に対する、
拭い難い不信感が、根底にある、
と、吾人は考える。


試みに、これまでの発言を拾ってみよう。


都知事 石原氏
(規制の)対象となっているものは、読んでもいないし、見てもいないけれど・・・
(社会的に害悪になっているものは)ある。
〈マンガ家たちの反対運動に対して〉
その連中、芸術家かどうか知らないけれど、
そんなことぐらいで描きたいものが描けなくなった、そんなものは作家じゃない。
ほんとに言わせりゃ、ある意味で卑しい仕事をしているわけだから。 
夫婦の性生活みたいなのを漫画に描くことが、子供たちに無害だっていうなら、
バカだね、そいつら。
「頭冷やしてこい」と言っといてくれ。
〈条例改正案可決について〉
当たり前だ、当たり前。日本人の良識だよ。
てめえら自分の子どもに、あんなの見せられるのかね。
大人で考えたら大人の責任だよ。当たり前だよ。
〈角川書店等の東京国際アニメフェア2011への出展取りやめをうけて〉
これ(条例改正)を理由に来ないなら、どっかの会社がね、
来なきゃいいんだよ、アニメフェアに。
来年、ほえ面かいて来るよ。ずっと来なくてもいいよ。来る連中だけでやります。

副知事 猪瀬氏
マンガの関係が好きな人のなかには
人生が行き止まりと感じている人が多いという印象を受けます。
自分が作品をうまく書けないことを、条例のせいにしてはいけない。
そんなものがあってもなくても傑作ができれば条例なんてすっ飛んでしまう。
出版社は傑作なら喜んで原稿を受け取る。
条例なんて、そのつぎの話。
まずは傑作を書いてから心配すればよい。
傑作であれば、条例なんてないも同然。

都職員参事 浅川氏
小説は読む人によって様々な理解がある。
その点、漫画やアニメは誰が見ても読んでも同じで、一つの理解しかできない。


インターネット上で、ざっと探してみただけでも、これだけある。
(煩瑣となるため、典拠は省略した。各自検索されたい。)
一読しただけで、不信感を禁じ得ない発言や、真意を測りかねる発言ばかりである。

いちおう、発言元のたどれるものや、典拠の確かなもののみを、選びとってはみたが、
無論、情報源がインターネットであるので、
この全てが事実であるかどうかは、定かではない。
一部には、
全く別人の手による創作や、複数の聴き手を経ることによる誤伝、
発言時の文脈で捉えねばならないような曲解があるかもしれない。
そういう点を差し引いて考えねばならないが、
ただ、彼らの発言が、こうまでも独り歩きし、拡散していく背景には、
条例改正問題に関心を持っている人々の多くが、
彼らのマンガ・アニメ文化の認識・発言に対して、大きく注目しているということ、
より具体的にいえば、
強い不信感を抱いているということがあろう。



以下、揚げ足をとり、難癖をつけるようなことにならぬよう、注意をしつつ、
彼らの発言の一つ一つを見てみたい。

石原氏は、 
(規制の)対象となっているものは、読んでもいないし、見てもいないけれど・・・
と言っておきながら、
社会的に害悪となるものは、ある、と断じている。
記者会見のこの下りでは、石原氏は、質問した記者に、
「一度読んでみたいんだ。是非、君買ってきてくれないか。」と、受け流している。
確かに、広大なマンガ・アニメ文化の中には、害悪になるものも存在するかもしれない。
しかし、それを断言するのは、
ひとまず読んだり見たりしたことのある人間が、するべきことである。
実物を見ずに、物事を断じてはならない。
行政の人間として、最もしてはならないことであるが、
それ以前に、人として忌むべき行動である。

猪瀬氏は、次のように言っている。
マンガの関係が好きな人のなかには
人生が行き止まりと感じている人が多いという印象を受けます。
生きている女を口説きなさい。
瞬間、瞬間、言うことが予想外に変わるから、
そのほうがおもしろくて未知で愛おしいよ。
http://twitter.com/#!/inosenaoki/status/11816092657786880
ツイッター上の発言であり、その経緯は今となっては復元し難いが、
さらにまして、その真意はいまいち理解しがたい。
「インターネット上で2次元キャラに『○○は俺の嫁』など言っていないで、もっと実際の女性を見ろ」
と言いたいのだろうか。
猪瀬氏は、“猪瀬直樹”個人の意見として、この発言をしたのかもしれないが、
自分が条例改正を施行する都の人間であり、発言が“副知事”の発言として読まれる、
ということを想定するべきであろう。
なお、猪瀬氏は、
条例改正の目的は、表現規制ではなく、書店での陳列の区分であると主張し、
理解を求めているが、
このように、不当な評価、あるいは誤解を招く発言が多く、不信感を買っているのも、事実であろう。

そして、
12月9日の都議会総務委員会における、都職員参事 浅川氏のこの発言。
小説は読む人によって様々な理解がある。
その点、漫画やアニメは誰が見ても読んでも同じで、一つの理解しかできないから。
「実写や小説が規制対象外になっているのはなぜか」という質問に対する、答弁である。
都議会HPにはまだ議事録が作成されていない。
ツイッター上で中継したものをまとめた、こちらhttp://togetter.com/li/77163を参照されたい。)
本気でそう思っているのだろうか、と、耳を疑いたくなるようなことばである。
「マンガが純文学を超えた。」
そういう作品も、マンガ界から出て久しい、そういう世の中である。
本気でそう思っているのならば、認識のずれや甘さというレベルではなく、
悪質な事実誤認といって差し支えない。
彼らが個人として、どのような信条を抱こうが構わない。
だが、
それを法として定めるのは、
全く別の問題である。



こうした、都知事 石原氏以下の行政側の、不当な認識に対して、
条例改正反対派の反発が、心証的な方向に進んでいることは言うまでもない。
それが具体的、かつ大きな形として表れたのが、
東京国際アニメフェア2011に対する、出版社等の不参加表明である。

2010年12月8日、角川書店社長 井上伸一郎氏は、
ツイッター上で、次のようにコメントした。
 さてこの度、
角川書店は来年の東京アニメフェアへの出展を取りやめることにいたしました。
マンガ家やアニメ関係者に対しての、都の姿勢に納得がいかないところがありまして。
http://twitter.com/#!/HP0128/status/12410676093911040
(改行・着色は筆者。)
井上氏はここで、出展取りやめの理由を、
明らかに、「都の姿勢に納得がいかない」 と言っている。

そして、翌々日の10日、
秋田書店・角川書店・講談社・集英社・小学館・少年画報社・新潮社・白泉社・双葉社・リイド社の
コミック10社会が、次の声明を発表した。
緊急声明
平成22年12月10日

12月7日深夜、角川書店の井上伸一郎社長がツイッターで表明した
「東京国際アニメフェア2011」への出展取りやめは、
瞬く間にネット上で大きな反響を巻き起こしました。

言うまでもなく、同アニメフェアの実行委員長は石原慎太郎東京都知事です。
石原都知事は、今回の「東京都青少年健全育成条例」改正に関して、
たびたび漫画や漫画家に対する不誠実で無理解な発言を繰り返し、
同改正案の成立を突き進めております。

「東京都青少年健全育成条例」改正に関しては、
規制の対象が極めてあいまいであるとして多くの議論を呼び、
本年6月に否決されたことは、周知の事実です。

こうした改正案に新たに修正を加える場合、
その内容と条文をあらかじめ公にして、議論を尽くすべきですが、
今回、都側は、そのようなことを一切実施していません。
この改正案は、
最も重要視されるべき漫画家やアニメ制作者との話し合いが一度も行われないまま、
今日に至っております。
また、提出された改正案についても、
これまでの出版界と都当局との話し合いの歴史を踏みにじるものであり、
規制の対象は依然あいまいで、むしろ拡大さえしています。

こうした経緯を踏まえれば、
当事者である漫画家やアニメ制作者が、
都側の一連の行動および改正案に強い怒りと不信感を抱くのは当然です。
漫画家・アニメ制作者の、漫画やアニメの未来を憂える発言に対して、
本来ならば石原都知事と都当局は、真摯に耳を傾けるべきだと考えますが、
それさえ行おうとせず、事実誤認に満ちた不誠実な発言を繰り返し続けています。
我々は、こうした石原都知事および都当局の、
漫画・アニメ制作者たちに対する敬意に欠けた態度に強い不信感を抱かざるをえません。


このような状況において、
石原都知事が実行委員長として開催しようとしているアニメのイベントに賛同し、
行動をともにすることは到底できるものではありません。
我々は、「東京国際アニメフェア2011」への協力・参加を断固、拒否します。

以上

コミック10社会
秋田書店 角川書店 講談社 集英社 小学館
少年画報社 新潮社 白泉社 双葉社 リイド社
http://www.hakusensha.co.jp/protest/index02.html
(改行・着色は筆者。)
ここで、コミック10社会は、
条例改正案に関する十分な話し合いがなされていない、という点を批判し、
出展取りやめに踏みきった理由を、
「石原都知事と都当局」の「事実誤認に満ちた不誠実な発言」や、
「漫画・アニメ制作者たちに対する敬意に欠けた態度」に対して、
「強い不信感」を抱いたからと、はっきり明言している。

このように、実際に形として表れた条例改正反対運動は、
前稿で述べたような、条文の曖昧さ、規制基準の曖昧さ、規制の根拠の不明確さ、
あるいは、憲法に約束された、表現の自由を守る、ということではなく、
都知事 石原氏以下の、言動や認識に向けられているのである。

そして、その出展取りやめの運動は、
コミック10社会以外へも拡大し、
さらに、東京国際アニメフェアと同日に、
角川書店等が「アニメ・コンテンツ・エキスポ」を開催する、という、
より大きく運動は展開したことは、周知の事実である。

しかし、こうした現実の動きに対してすら、
都知事 石原氏は、
勝手に自分で決めたらいいじゃないか
と、対応した。
もはや、子どもの喧嘩のような対応であるが、
このようにして、両者の不信感は募るばかりであり、
何かしらの合意へ向けた話し合いなど、望むべくもない状況に来ている。


繰り返しになるが、
政治家や役人の、誰が、どのような信条を個人的に抱こうが、それは構わない。
特に石原氏は、これまで、
個人の偏見的な信条を、公の場で口にして、度々問題を起してきた人物である。
冒頭に挙げた発言もその一つなのだろう。
それらをむやみに吾々が批判したところで、所詮空振りに終わり、
石原氏は痛くも痒くもないのだろう。
しかし、石原氏よ、
施政の上にそれを表すのは、
いささか、いや、大いに、度が過ぎるのではないだろうか。


そして、すでに改正案は可決されているのであり、
7月には、施行されようとしている。
そういう現実に直面して、吾々は果たして何をすべきなのだろうか。


→次稿 4. 反対論者の論点の拡散 へ


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都条例改正をめぐって 2

2011年01月17日
 ←前稿 1. 規制の是非・必要性



2. 条文・規制基準・規制の根拠

本稿では、
条例の条文が具体的にどのようなものか、
そのどこに問題があり、論点とされているのかを考えてみたい。

第七条
図書類の発行、販売又は貸し付けを業とする者
並びに映画等を主催する者及び興行場(中略)を経営する者は、
図書類又は映画等の内容が、次の各号のいずれかに該当すると認めるときは、
相互に協力し、緊密な連絡の下に、
当該図書類又は映画等を青少年に販売し、頒布し、
若しくは貸し付け、又は観覧させないように努めなければならない。
一 (略、ほぼ現行のとおり)

漫画、アニメーションその他の画像(実写を除く。)で、
刑罰法規に触れる性交若しくは性交類似行為
又は婚姻を禁止されている近親者間における性交若しくは性交類似行為を、
不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、
青少年の性に関する健全な判断能力の形成を妨げ、
青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの。

第八条
知事は、次に掲げるものを青少年の健全な育成を阻害するものとして
指定することができる。
一 (略、現行のとおり)

販売され、若しくは頒布され、又は閲覧若しくは観覧に供されている図書類又は映画等で、
その内容が、第七条第二号に該当するもののうち、
強姦等の著しく社会規範に反する性交又は性交類似行為を、
著しく不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、
青少年の性に関する健全な判断能力の形成を著しく妨げるものとして、
東京都規則で定める基準に該当し、
青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められるもの

三・四 (略、ほぼ現行のとおり)
 
(改行・着色は筆者。着色部分が改正箇所にあたる。)
(条文はhttp://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20101122_408878.html参照)



以上が、改正された箇所のうち、特に問題とされている部分である。
法律特有の煩瑣な文章であるが、要約すると、

第七条では、
出版社や書店等が、強姦や近親相姦等の過度な性描写を、
青少年の目に触れさせぬよう、出版社や書店等が自主規制すること、

第八条では、
都知事が、強姦や近親相姦等の過度な性描写のある図書を、
青少年に有害なもとの指定できること、

を定めている。
その目的が、「青少年の健全な成長」を守るためであることは、
条例の性質上、いうまでもない。


この条文が、いかなる拘束力を持つものであるのか。
第七条の定めることは、「努力義務」であり、
守らなかったからといって、罰せられるようなことはない。
だが、守らないことで、行政に目を付けられ、
その後の営業等がしづらくなるような状況を、作りだされる可能性はある。
(解釈については、法律に詳しい友人の教示による。)

現に、
書店やコンビニでは、改正案成立直後から、
“有害”とも思えないマンガ雑誌が、成人向けコーナーに配置されたり、
マンガ編集者がマンガ家に対して、これまでどおりに描くことを抑制したりと、
条例に対する過度に敏感な反応が、インターネット上で報告されている。


では、
条文に示され、規制されようとしている、
「青少年の健全な成長を阻害するおそれのあるもの」とは、
具体的にどのようなものなのか。
第七・八条とも、2つのものを挙げており、
一つは、
「刑罰法規に触れる」=「強姦等の著しく社会規範に反する」性の描写であり、
もう一つは、
「婚姻を禁止されている近親者間における性交若しくは性交類似行為」
=近親相姦等の描写である。

この2つを単純化させて、
「子どもには近親相姦や強姦の描写はダメ!」とすると、
いかにも、規制されて当然、というように感じられる。
実際、この改正の一件を報じた数少ないテレビのニュースの中では、
そのようにして問題を単純化して取り上げたものが目立った。
(この、マスコミの認識の浅さ・甘さ・鈍さについては、別稿で論じる予定。)



では、この条文のどこに、
言い換えれば、強姦や近親相姦の描写の規制のどこに、
インターネット上での活発な反対運動を巻き起こさせるほどの危険性が潜んでいるのか。

この点については、主に4つの危険性・危機感があると考えられる。
それは、
①自粛ムードの蔓延
②文学性の破壊
③基準の曖昧さ
④規制の根拠の不明確さ
である。



①自粛ムードの蔓延

「努力義務」は、業界に過剰な反応を誘い、行き過ぎた自粛を蔓延させ、
業界全体を委縮させる可能性を有する。

本来条例で定められていることは、
青少年の目に触れぬようにすることである。
だが、行政がそれを法として定めた、ということにより、
業界関係者が、いたずらに過剰に敏感な反応をし、
そうした本来的な目的を超えて、過度に自粛・委縮した状況が現出するのである。
現実に、小売店や編集のレベルで、それが起こっていることは、
上述のとおりである。

前稿
で述べたように、
同人業界をも包みこんだマンガ・アニメ業界は、
いわば「なんでもあり」が特徴であり、大きな売りでもあった。
そこに、直接ではないにせよ、法による規制が加わり、過度な自粛・委縮ムードが広がれば、
売りであるはずの「なんでもあり」が損なわれ、
業界全体が縮小・衰退の方向へ向かってしまうかもしれない。

それゆえ、
自由にものを描けなくなってしまうマンガ家や、
業界の衰退を回避したい出版社のみならず、
自粛・委縮ムードにより娯楽が消えてゆくことを憂慮する読者・ファン層もが、
条例改正(改悪)に反発したのである。



②文学性の破壊

そして、
なぜ強姦や近親相姦の描写の規制が、過度な自粛を生み出すか、
過度な自粛が、マンガ・アニメ文化にどういう影響をもたらすのか、
というのが危険性の2点目である。

確かに、強姦等の性犯罪は決して許されるものではないし、
近親相姦等は反社会的なものであって、礼讃されるべきものではない。
しかし、そうした反社会的や背徳的なものが、
一面では、作品の中において、文学的な要素を色濃くもつものとなり得るのも、また事実である。
ウィキペディア「大衆文化における近親相姦」項もなかなか興味深い。)

性犯罪や近親相姦等をメインテーマに扱った文学作品やマンガ・アニメ等は、多々ある。
そうでなくても、著名なものを挙げれば、
手塚治虫の『アドルフに告ぐ』や『陽だまりの樹』などでも、
強姦等がストーリーの展開の上で、重要なトピックとなっており、
それがなければ、物語が成り立たない位置にある。

つまりは、
一部のマンガ・アニメにおいては、
そうした性描写が、作品の文学性を支えている、と言っても、
過言ではないのである。
極論すれば、
主に若年層の支持によって発展してきた、というマンガ・アニメ文化の歴史的前提からして、
程度の問題はあれ、
性描写とマンガ・アニメ作品は、
切っても切り離せない関係にあるのである。

そう考えた場合、
作中で性犯罪や近親相姦を扱うことそのことが、
一概に、「青少年の健全な成長を妨げるおそれ」につながる、とは言えないことは、
明白である。
換言すれば、
性犯罪や近親相姦を扱った作品が、青少年に“有害“である、という判断は、
あまりに短絡的であり、
その判断こそ、
様々な作品を吸収した、「青少年」の豊かな人間性への「健全な成長」を、
妨げるとも限らないのである。



③基準の不明確さ

ただし、条例では、
作中で性犯罪や近親相姦を扱うことそのものを、規制しているわけではない。
あくまで、
それを「不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現すること」を規制の対象としている。
(正確には、その作品を青少年の目に触れさせないことだが、その問題は①で先述。)

だが、
「不当に」賛美・誇張する描写・表現とは、どのようなものか。
「不当」か「不当」でないかの判断は、誰が、どのようにして行うのか。
この点が、③基準の不明確さにあたる。

ある作品の性描写において、
それが、「不当に賛美・誇張する」描写・表現であるか、
それとも、正当で必要な表現であるか、を判断することは、
読者・視聴者それぞれの感性にかかっている。
客観的な基準を設けて、明確な線引きをするなど、不可能であることは、
言うまでもない。

規制するか否かの判断は、
「自主規制」である以上、おそらく都の職員ではなく、
業界関係者および教育関係者による評議会が結成され、
その会議によって、行われるのだろう。

しかし、
その評議員が、判断を委ねるに信用に足りる人物なのか。
結局、都が評議会結成を斡旋することで、
立場が都に近い規制推進派を中心に、委員が組まれるのではないのか。
会議の経過は、どのようなものなのか。
公開されるのか、それとも、ブラックボックス状態なのか。
評議員以外にも、発言の機会を許されるのか。
そうした批判が、作者・権利者、および読者・ファン層から起きてくるのは、
自然の流れであろう。

しかも、
そこでの規制判断が、
単に「青少年の目に触れさせぬように」という決定を超えて、
業界全体に、自粛・委縮という形での表現の規制をもたらすことは、明らかである。
評議会の決定が、本来の目的以上の影響力を持つことを、
忘れてはならない。

である以上、
判断に、多くの人々が納得する、明確な基準が求められることは、
当然なのであるが、
しかし、それにしては、
条文にも、改正前後の関係者の発言にも、
明確な規制基準が示されることはなかった。



④規制の根拠の不明確さ

そして、
そもそも、なぜ過激な性描写が規制されるのか。
なぜ、「漫画、アニメーションその他の画像」が規制の対象になり、
「(実写を除く。)」と、実写は今改正の規制の対象外となったのか。
その根拠の不明確さが、4点目である。

よく、過激な性描写が、犯罪を誘発・増加させる、と言われる。
特に、1988・89年連続幼女誘拐殺人事件の影響で、
マンガ・アニメと性犯罪の関連を、世間に印象付けたことは、
周知のとおりである。
近年、同文化の偏見払拭やイメージ改善が進んでいるとはいえ、
完全なものとはいえない。

規制推進派の根拠に、
そういうイメージがあるのはどうしようもないことであるし、
どうとすることでもない。
ただ、
それを法として定めて規制する際に、
その明確な根拠が示されることはなかったのである。

犯罪とマンガ・アニメの因果関係を、統計的に示すことは、
とうてい不可能だろう。
しかし、
イメージによって、法を定め、規制を行うことは、
それもまた危険である。
特に、今回の改正では、
規制推進派・反対派・都の十分な議論がなされなかったことが、指摘されている。
そして、
都知事・副知事・都担当者の、偏見的な発言や不正確な認識が、多々報道・報告されており、
彼らの個人的なイメージによって、半ば強引に改正を成立させた印象すらある。
(これについては、次稿で論じる予定。)

正当な根拠を示し、十分な議論を行う。
集団で物事を決する上では、誰しもが行う、当然のことであろう。
しかし、この当然のことを経ずに、条例は改正された。
囂々の反対運動が起こるのも、無理はない。




以上のように、
今回の条例改正では、
影響力の大きさに対する不安(①・②)や、
不確定な要素(③・④)と、
不安材料が、あまりにも多過ぎるのである。
それらの根底には、
なぜ、「実写映画や小説は規制対象外で、マンガ・アニメばかりが・・・」というような、
都知事以下の、不当なイメージや偏見的な言動に対する不信感が、
強烈に存在するのである。



→次稿 3. 都知事以下の認識 へ



   

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